008 居心地のいい教室の話

人間、楽しければ楽しいほど、充実していれば充実しているほど、言いたいことって無くなっていくなと思います。最近は1年前の自分が見たらドン引きするくらいカレンダーが埋まっている。考え続けて言葉を吐き続けるのがアイデンティティみたいなとこあったのに、おい……いいのか? このままで……と私の中の市井游が囁いてくるので、久々になんか、書くか……となりました。義務感で書くブログ、楽しいか? 需要もクソもないのに。書いてる途中で飽きたらそこで終わろうと思います。

 

今はお汁粉を食べながら書いてます。

餅が結構好きなんだけど、一人暮らしだと調味料を使い切るのがマジで難しくて、醤油すらも滅多に買わないので、餅買ってもなあ……と思ってたんですが、フリーズドライのおしるこなるものを最近購入してから餅食が捗っている。

切り餅(切れ目入ってるやつ)を手で半分に割って、レンジ使えるタッパーに入れて、餅よりちょっと上まで水入れて、3分くらいレンチンして、お茶碗とかにフリーズドライのおしるこを入れて、お餅のレンチンに使ったお湯でおしるこを溶かしてからお餅を入れる。

お餅もおしるこも日持ちするから賞味期限気にしなくていいし。使う食器がタッパーとお茶碗とお箸だけなので楽。包丁まな板はもちろんラップもアルミホイルも要らない。あったかい。美味い。最高~。

 

おしることぜんざいの違いを気になる度に調べて毎回忘れてる気がして、今食べながら調べました。なるほどねとなりました。

 

子供の頃に満足にできなかった体験を大人まで引きずるみたいなのって結構あるよな。早いうちからインターネットに触れると自己肯定感低くなるよねみたいな話をふと思い出した。

私の場合、自分がクラスで1番か2番に絵が上手いっていうので調子に乗ってた頃があったんだけど、わりと早い時期(小学校高学年くらい)からインターネットの世界に足を踏み込んで、自分より絵が上手い同世代なんで腐るほどいるな……と気付いた。それでも評価されるくらいは……と思って、回線の向こうの誰かに絵を見せたこともあったけど、褒めてくれる人が1人いたら、下手くそって笑う人も1人いて、目にもかけない人が100000000人くらいいた。

 

Guianoも「君は世界を知りすぎたのさ それはいいことだけじゃない」って言ってた。わかる。(そういう意味か?)

 

TRPGをやってる理由のうちの、小さくないひとつに「その世界でなら自分を褒めてくれる人がいる」っていうのが、正直ある。キャラメイクがとか、RPがとか、いろいろ。

教室だな、と思う。

狭い世界で、狭い世界でなら、ちょっとできるやつなんです、という顔をできる。TRPGの配信や動画を見ない理由に、自分よりTRPGが上手い人なんて腐るほどいるな……と気付きたくない、っていうのがある。あります。正直……正直まだ……調子に乗っていたい! っていう。

TRPGに関するコメントで「中途半端にクリエイティブしてる気分になれるので、中途半端なやつらが集まる」ってやつを見かけて、冷や汗をかいたことがあります。誰しもそうとは思わないよ、本当にすごい人だっている。それで食ってけるだろぶっちゃけ、みたいな人もいる。いやそもそもそんなつもりで遊んでない人もいる。ただ楽しくて。ただ物語が、キャラクターが好きで。

でも自分は違って、特に秀でた才能がないことから目を逸らすのに、ちょうどいい空間すぎるんだよな。教室の外には、自分よりすごいやつなんかいっぱいいるのに。

 

なんか暗い方向に話が進み始めたからちょっと前向きなこと考えよっと。

ただ、人間の価値って、単純なパラメータの問題じゃあないよな~とも思ってるんですよ。例えば大好きな親友がいて、いろんな苦楽を共にしたり、いろんな景色を見たり、励ましたり励まされたり時には喧嘩したりして今まで生きてきたとする。そいつと、ある日突然現れたあらゆる能力がそいつより勝っているスーパーマンとで、どっち優先するかって言われたら、スーパーマンより旧知の親友を選ぶ人、少なくないと思うのね。

私は結構そういう過去の思い出みたいなやつ大好きマンで、なんで一緒に遊んでくれるの? とか、なんで好きでいてくれるんだろう、とか言われたときに、すごいからとか、尊敬してるからみたいなのも勿論あるんだけど、それ以上に、あんときああ言ってくれたからとか、前遊んだときに楽しかったからとか言うのがあるわけじゃん。

要は好感度メーターの話ね。

これは感情的に見えてかなり合理的な判断だと思ってます。人間、経験から学ぶので、「楽しかった経験」「嬉しかった経験」から「この人となら安心~」みたいな判断材料を蓄積してるわけだよな。共通の思い出が多ければ多いほど、お互いの判断材料が増えるので、誘いやすいとか、高感度メーター上がりやすいとか、そういう理屈。

自分だってよく私と遊んでくれる人、何が楽しいんだろう……と思うことはあるんだけど、その考え方自体がちょっとずれてるんだよなあというのはある。自省も込めて。

すごいと思ってる部分も尊敬してる部分もあるけど、もし相手からそれが無くなったとしても、同じように遊んでるだろうなと思う。なんか……ちょっと悪いことしちゃったくらいじゃ全然許しちゃう。叱って笑って、また遊ぼうぜって言う。だって友達だしさ。

 

TRPG以外のこともやりたいなあ。最近は映画とかもちょこちょこ見てる。紅茶買ったりしてる。謎解きとかも楽しい。なんか創作したいなという気持ちもあるけど、それに関してはわりとTRPGが満たしてくれちゃうんだよな。中途半端にクリエイティブできる遊び、なので……。いやいや、趣味に貴賤はないと信じてる。オタクらしく。

言うて最近触れてる世界はTRPG通じてできた友達の影響が色濃い。狭い教室の中に、いろんな一等賞がいて助かってるのだ。素直に尊敬できるし、いろいろ教えてもらえるし、楽しい。教室から出なくてもいろんなことを知れる。

多分これから、たまには廊下に出て、他のクラスのやつとも話してみたいなと思える瞬間もある。ちょっとずつね。幼少期にやれなかったことを、やり直してるのかもしれん。

 

飽きた。おわり!

007 空が綺麗だった話(映画「Klondike」感想)

映画祭で観たKlondikeの感想ですが、関係無い話もいっぱいします。多分、観てなくても読めます。主に「男女」の話。あまり好きじゃない人もいるかもしれない。私もあんまり好きじゃない。

ちょっと前にトレンドに上がった「性欲由来の優しさ」の話がめちゃくちゃ面白かったのでそれにも言及する。

 

ちなみになんでタイトルがクロンダイクなのか調べても出てこなかった。カナダの地名らしい。何故カナダ。わからん。

昔は金が採れてたらしいです。パソコンに入ってるソリティアの正式名称でもある。

 

映画の最後に「女性へ捧ぐ」みたいな文章出てきてビビりました。

 

男が女がみたいな、生まれたときの運ゲー2分の1で人生のいろいろ左右されすぎだろ感は、ある。順を追って話したいけど順がわからないな。

 

今日話したいこと〜、2つです。Klondikeの感想。もいっこは性差の話。

 

映画Klondikeはかなりショッキングな内容でした。超ざっくり説明すると、戦争の影響が大きい紛争地帯での夫婦の話。「落ち着いたらさ、天井の穴開いたとこに、窓つけようよ。家具も新しくしてさ……」みたいな会話から始まります。

妊娠してる奥さん。村から出たくない旦那さん。村から姉を連れ出したい、奥さんの弟。分離派の知人の男。いろんな思想が絡まって反発して物語が進み、最後にはロシア軍の兵士に旦那さんと弟が撃ち殺されて、ひとり残された部屋で奥さんが出産、赤ん坊が短い産声をあげたシーンで映画が終わります。

 

夫婦が住んでる家の寝室には、南国の景色、海と空が幻想的に描かれた壁紙が貼ってあるんですが、映画の序盤でその壁が分離派の誤射した砲撃で破壊されます。そのせいで、室内を映したシーンでも大体外の風景が映ってます。んで映画中通して、空がめちゃくちゃ綺麗。壁紙より全然綺麗で、外の光が入るので明るくて。朝焼けか夕焼けのシーンが多い気がする。永遠まで広がる、淡く澄んだ水色と、薄桃色のグラデーション。その下で起こっている惨劇。

空が綺麗だね、なんて台詞は出てこないです。その代わり、天井の穴に窓をつけようって台詞が出てきます。大破した壁から見える景色は美しくて、「ここも窓にしよう」って言うんです。壁があって、窓があって。この村の空や景色があまりにも綺麗なことは、夫婦にとって当たり前のことなんだろうな、と思います。夜が来て朝が来て、今日も空は美しい。だから、窓をつけようね。

 

劇中でその夢が叶うことはありません。生まれた子供と、残された奥さんがどうなったかはわかりません。子供は予定より2ヶ月早く生まれて、弟と旦那は死んでます。無事ではないだろうな。

 

映画を観終わったときはとにかくショックで、その衝撃を上手く言葉にできなかったんですが、(一緒にいたときさんるかりおさんに心配かけました、ごめんね。気を遣ってくれてありがとう)多分、「祝福されない出産」っていうのが本当につらかった。

子供が産まれて母親が生きてる、じゃあそれはめでたいことだって言い切れないとダメじゃん。なのにこの映画では、赤ん坊が無事かもわからないし、親子が今後どうなったかもわからない、ただ普通にご飯を食べて、普通に生きて、普通に成長するというふうにはいかないと思う。希望が無い。産まれたばかりで、全ての可能性を持っているはずの赤ん坊に、希望が無い。そんなことが起こってるんですよ。

空は綺麗で。テレビを着けたらサッカーの試合が流れてて。なんとか食べて、毎日を繋いで。家があって。壁と窓の代わりに穴があって。眠りに就いて。赤ん坊が産まれて。旦那と弟が殺されて。日常の、当然の幸福の中に、いとも簡単に、戦争の痛みが振り下ろされる。喜ばれない出産も、死も、綺麗な空の真下にある。

 

壁が無ければ綺麗な空がずっと見えるのに、壁紙に偽物の空をチョイスしたのが意味深だよな。家には壁が必要です。壁は外と中、外と家を隔てるもので、守られるべき家庭、プライバシーの象徴。夫婦の家にはいろんな人がやってきていろいろ言ってきます。そこに夫婦の、あるべき家庭の姿とか、当たり前の幸福とかが無い。

空の下には戦争がある。壁も屋根も穴の空いたここには、戦争が降り注ぐ。

 

ショックだったなぁ。

 

んでなんかまぁ、性差。性差の話。こっからは結構蛇足というか、どっちかというとTwitterのトレンドに入ってた「性欲由来の優しさ」に関する話。

 

最後家に押し入ってきたロシア軍が「生まれたガキが女だったら俺に寄越せよ」「男だったら俺が」みたいな話しててカスだなと思ったんですが、なんというかそう、女性や子供って守られてるんだなっていうか……

 

「性欲由来の優しさ」とかいうトレンドは、「抗うつ剤の副作用で性欲が死んだんだけど、性欲が死んだ結果、今までなんとなく素敵に見えていた女性たちがうるさいチビにしか見えなくて、女性に優しくするのが苦痛になった」みたいなツイートが発端でした。

んでそれに対して、声の大きい女性陣が「性欲由来の優しさなんか要らない、子供や老人にするような優しさがあるだろうが」「優しくする男どもみんなワンチャンあると思ってるって話?まじでキツい」みたいな反応で、声の大きい男性陣は「全部サイゼで割り勘になるがいいのか?」「優しくされてる自覚も無いのか」みたいな反応をしてて、わりと極端に二分化しててへぇ〜と思いながら見てたんですが。

 

こっからは完全に私の妄想。多分、性欲由来というわけじゃなくて、性欲とセットなだけなんじゃない? という気がしており。もし仮に男性の本能に女性への優しさがなくて、性欲だけがあったとしたら、多分女性に対していくらでも暴力的になれると思うんですよね。平均すればだいたいどうしても男性の方が力が強いので、女性に優しくしなくていいんだったら適当に騙くらかすなり力で黙らせるなりで子供産ませればいいていう方向に行く可能性がもう全然ある。

でもそれだと繁殖のシステム的に困る。だって産むの女性なので。女性の身体に負担がかかると繁殖がスムーズにいかない。てことで「女性は大切にしないといけない」、その感情に結びつけるために「女性に評価されることは良いことだ」とか「女性には優しくするもんだ」みたいな感覚がもう本能的に性欲とセットで実装されてるんじゃないかな〜〜という、想像です。

なんで、別に性欲由来ではないというか。傷つけちゃいけない、守ってあげなきゃいけないという抑止力みたいなものが性欲と一緒に削げ落ちるんだろうな〜という気がする。多分だけど。

 

まあだいぶ男女の社会的地位の差って是正されてきてはいると思うけど、それでも言うてまだまだ残ってるし、女性ってどうしても突然暴力に晒されるかもっていうのに怯えなきゃいけない場面はあるのよな。痴漢なりレイプなり、一人暮らしするなら2階以上にしろとか、短いスカートで混んでる電車乗るなよとか、飲み屋でトイレに立つなら飲み物残すなとか。そういうやつ。そういう恐怖がある中で、なんでかわからんけど真っ当に楽しく生きられてるのは、社会とか男性の、女性に対する、本能的で無条件の優しさに護られてるからなんだと思う。

件のツイートの流れの中に「女性は男性の優しさに無自覚に浸って生きている」みたいな話があって、振り返ってみればまあ、そうだなぁって思います。それで痴漢やレイプから直接的に護られたのかっていうとわからないけど、全ての男性からその優しさが消えるとかなり生きづらいし怖いと思う。

まあ、誰にでも優しくしろよって言ったらそうなんですけど。そういうのはちょっと今は置いといて……

 

Klondikeの最後に、「女性に捧ぐ」みたいな字幕が出てきて、そのときは「い、意味わからん!! 捧ぐなよこんな恐怖映像!!!」って思ってたんですけど……子供や子供を産む女性って本当に非力で、壁や屋根と、優しい男性がいないと、まじで健康に普通に生きていくのきっついんですよね。映画とかそのツイの流れとかを観て、「ああ、護られてるんだ」「今幸せに生きられているのは環境のおかげだ」っていうのを妙に理解してしまって。

 

社会の形はどんどん変わって、精神的な性差、要はジェンダーに対する価値観もどんどん更新されていくけど、身体的な性差、本能的な部分で、たぶんこのシステムだけはどんなに薄らいでも残ると思うんですよ。そのことの有り難さというか……幸せに生きられるのって、当たり前だけど、当たり前であるべきことだけど、凄いことなんだなと思いました。うん。

これが当たり前じゃない国や地域もたくさんあるし……そのことは知っておかないとなと思うし、常に何かに感謝して生きろってわけじゃないけど、それは疲れるので……ただ時々思い出して感謝できるように、忘れないようにしないとなっていうのと。

子供を産む機能があるからそういう仕組みなのかもしれないけど、なんかだからといって産まなきゃいけないとかじゃないし、弱いので護られているという話だとして、じゃあどう生きればいいんだろうってなったとき、まあ……ちゃんとしっかり生きることだな〜というとこに落ち着く。護られて生きている命だからこそ、楽しく幸せに、余裕があるときは感謝を込めて、何かに還元していきつつ。誰かに優しくしてみたりとか。たまに募金してみたりとかね。そういうの。

一応映画のテーマとか最近見た面白ツイートの影響で、女性だからーという論調になったけど、まあみんな誰かに護られて生きてるってのはそりゃそう。その上でって話ね。予防線が好き。

 

昔は死にたいとか死ぬしかないとか死ぬか〜とか思うこともわりとあった。ありました。昔っていうのは盛ったな、最近もある。無いわけじゃない。まあ……最終自由だとも思うし……でもなんか、いろんなものを、いろんな人から、当たり前のような顔をして貰って、受け取って生きてるんだなというのは、ちゃんと忘れないようにしたいなと思った。これは個人的な感想で、誰かに強制するようなものではないです。

 

久々に長文お気持ち表明できて満足。みんなおやすみ。明日も幸せに生きろよ。

006 企画展「自然と人のダイアローグ」について

感想というか考えたことの備忘録、のようなもの。無駄に長いです。タイトルの企画展に行ってないとまじでなんの話かわかんないと思うので、優しい人は載せてるタイトルの絵を検索しながら読んでみてください。

ちょっと行った気分になれるので以下の紹介記事がわりとおすすめです。(私も思い出すために結構見た)この記事内で名前上げてる作品の写真もわりとほぼ載ってます。この記事読むより絶対すぐ終わるので、先に読むか並行して読むのをおすすめします。

storyweb.jp

 

企画展のテーマについて

自然に関する絵が並んだわけだけど、自然だけがテーマじゃない。まあだいたいざっくり1800年代以降の絵がメインだったが、この時代の絵画において「自然と人のダイアローグ」という主題はかなり重要だと思います

西洋美術史において今回展示されていた絵画は派閥的に「印象派」「ロマン主義」あたりが多かったんですが、このあたりって「自分の好きなように描こうぜ」「絵で自分の考えを表現しようぜ」みたいなスタイルの人が増えてきた時代なんです。要はなんか全体的に自己主張が激しい。それぞれの画家にスタイルがあって「らしさ」を感じる絵画が増えてきた時代だなと思います。

(いろんな画家の作品が数点ずつ並んでて、画家についての解説もわりとしっかり載ってたおかげで画家ごとのスタイルや主張や好みの違いもわかりやすかったのが今回の展示の単純に楽しかったポイントのひとつだよね)

 

人は大昔から自然の中にいろんな意味を見出してきました。四季の巡りを人の人生に例えてみたり、大地を父と、大洋を母と比喩してみたり、夜に死と眠りを見たり、いろいろ。(今回の展示の目玉作品、ゴッホの「刈り入れ」の解説で知ったんですが、聖書にも麦を人に例える一節があるそうです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」)

 

しかし当然、自然自体に意思はないし、人間と対話しようという気ももちろんあるわけない。

企画展のタイトルの「自然と人のダイアローグ(=対話)」とは、その実、天文学や物理法則に則って一瞬ごと千変万化に移り変わる自然を足掛かりに、自分自身、或いはもっと大きな社会や世界とひたすら向き合う果てしない行程なのかな……と解釈しています。(なんかミクロコスモスとマクロコスモスの話みたいやね)

コリントの「樫の木」は、私が一目見たときの印象は「こわい」でした。枠に収まりきらない大樹が青白い空を背に黒々とそびえ立つ姿が、人にはもうどうしようもないものに感じられたのかなと思います。描いた人も、この威風と物寂しさを感じていたのかなあ、そうでもないのかな、でも何かしら、ただごとではない衝撃とか感動があってあの木を絵にしたんだろうな、というのは伝わってくる。

とはいえ樫の木に人々をこわがらせようとかなんとか思わせようなんて意思があるわけではなく、自然の中に何かを見出して、感じ取る我々がいるだけなんですよね。そんな対話のアウトプットの成果がここにある作品たちで、どれもこれも画家の精神や感性と深く結びついた作品群だと思うと、見るのが楽しかったですね。

 

自然がもたらす刹那性と規則性について

例えば人が作った建物のある景色があるとする。全く同じ場所から、全く同じ角度で、全く同じ建物を、全く同じように見たとする。建物自体はほぼ変化は無いのに、その風景には見る度に姿を変えるわけです。

静けさの中で冷たくて白い光をめいっぱい吸い込む朝。光と影が濃くなり、音と色で彩られ活気に満ちる昼。斜めに伸びる赤い陽光の中で影が行き交う夕暮れ。闇の中で光が瞬き、帳が様々な物を覆い隠す幻想的な夜。花が咲き陽光に目覚めと温もりを見出す春。強い熱と光、時折生と死のコントラストを見る夏。空が遠ざかり、生き物が眠りに就く準備をする秋と、厳しさと静けさの中に時折目が覚めるような美しさや喜びを見せる冬。

それぞれの季節、それぞれの時間、あるいは天候ごとの表情を見せる景色、その「一瞬ごとの景色」に、今回展示されている作品の画家たちは何かを感じたり、あるいは求めたりしていたのかな、と思います。

モネの朝の聖堂の絵(ルーアン大聖堂のファサード(朝霧))や、レイセルベルヘの夜の港の絵(ブローニュ=シュル=メールの月光)は時間と天候による一瞬の景色への愛を感じて良かったな。ピサロの「ルーヴシエンヌの雪景色」は冬の夜大雪が降って朝晴れた日の雪景色を見たときの感動を思い出して好き。

 

その反面で、自然界にはたくさんの規則性があるわけです。花弁の数は花によって決まっていますし、太陽は昇れば沈むし、波は寄せては返すし、雪が解けたら春が来る。自然の本質、その魅力の根源にパターナリズムを見出した人もいるっていうのも面白いよなと思います。

そもそも美しいと感じる心は何か。黄金比が自然界にも多く見られる現象で、それを最も美しいと人が感じるのは何故か。そもそも人間とて自然から生まれて自然の中で生きてきたわけで、その感性に自然の中にあるリズムっていうのは思った以上に深く根付いているのかなとか考えたりします。しらんけど。詳しいことは専門家に聞いて。

ガッレン=カッレラの「ケイテレ湖」、ホドラーの「モンタナ湖から眺めたヴァイスホルン」、ランソンの「ジギタリス」などは、作為的ではない自然そのものが持つリズムを装飾として取り入れてるのを感じます。素朴さがあっていいよね。

 

「美術展」の良さについて

なんか頭の良さそうな話を偉そうにいっぱいしてしまって恥ずかしくなってきたので、もうちょっと頭の悪い話をしようと思います。要はでかい絵っていいよな!という話です。

企画展の順路や絵の配置ってすごく綿密に構築されてて、壁の位置とかによって次の絵がちらっと見えたり、急に絵が視界に飛び込んできたりするわけです。広い空間に何枚も絵が並んでる場所もあれば、小さめのスペースに1,2枚ずつ飾られてる空間もあったり。

特にでかい絵がどんと視界に入ったときとか思わずにやける。マスク社会万歳。でかい絵ってさあ、それだけで良いんだよなあ。

1章ラストの、角曲がった瞬間に明るめのスペースに堂々と待ち構えてた、リヒターの「雲」はインパクトあったなあ。隣にモネの「舟遊び」が並んでるのもいいね。

 

「雲」とかいう作品(めちゃくちゃ写真だと思ってましたがあれ油彩らしいです。ばけもんか)、まじででかいんですよ。大人5人分くらい。そこに曇り空をそのまま切り取ったような絵があって。額縁はなくて。曇り空って言ってもわりと明るいんです、太陽光が透けてて、雲の縁は白く光ってて、雲が重なってる部分は濃いグレーで、青空が見えるような見えないような、そんな空が、どんって出てくるんです。

昼間、雲が無い日にそのまま空を見上げるのはまぶしすぎて、ああやって少し雲が空を覆ったときに明るいほうを見上げると、ちょうどあんな具合。雲が太陽光を含んで微妙なニュアンスで色を変えて光って、美しいけど、濃いグレーの雲の向こう側はわからない。空への憧れを思い出させるような特大サイズの絵。

んでその隣にはモネの舟遊びがあるんです。これも結構でかい。大人2人分くらいかなあ。額は金で結構しっかりしたやつ。女性が2人小舟に乗って楽しそうに談笑……しているのかはわかんないけど、半分以上が水面を占める絵で、空は一切写っていません。水が青いから晴れてるのかなあ、くらいの想像しかできない。主題は舟と女性で、印象派らしく筆のタッチが残った写実的とは言い難い絵です。

超対照的なんです、この2枚。んでどっちもでかい。この2枚並べようぜって言った人やばいなって思います。それぞれの主張や自然に対する感動への愛情表現を、最大出力で同時に食らう羽目になるんです。キャパオーバーなります。こういうときに、美術展サイコー!って思います。

でもよくよく見てればその中に確かに同じような愛を感じるんですよね。揺らぐ水面と流れる雲、さざ波や雲の粒子に反射する光、憧憬とか。だからぱっと見対照的でも、同じ空間に並べても全然喧嘩しない。横並びじゃなくて狭いスペースの角を挟んで飾ってるのもいいよね。片方見ようと思えば集中できるし、少し引いたらどっちも目に入る感じ。

 

有名な作品(今回の企画展まじで有名どころばっかだった)は結構、インターネットで検索したら出てくるやつが多いんですが、やっぱ専門家が練りに練った順番と配置で飾られた作品を生で見るのは格別の体験だなと思います。楽しいね!

 

人の営みと自然の関係について

人は自然の恵みを享受して生きてる……というとなんか急に説教くさいですが、人の営みと自然は切り離して考えることはできません。

今回の大目玉であるゴッホの「刈り入れ」は、まだ暑い季節に、ひとりで延々と麦を刈る農家の姿が描かれてます。眩い金色の太陽と麦が印象的で明るい絵に見えますが、この刈り入れられる麦は人の死を、刈り入れをする人に悪魔の姿を、ゴッホはそれぞれ見たといいます。仕事してるだけの人に悪魔なんてそんな、殺生な……と思わなくもないけど、ただ、ゴッホは死を悲観してこの絵を描いたわけじゃないそうです。

ゴッホは弟に宛てた手紙に、「この死のなかには何ら悲哀はなく、純金の光を溢れさせる太陽とともに明るい光のなかで行われている」と書き残しています。

麦は毎年決まった時期に植えられ、決まった時期に収穫されます。そこに麦の意思はなくて、人間の手によって育てられて刈られる。そのサイクルを、人間は巡る季節とともに繰り返します。自然の中に季節の巡りがあり、それに合わせた人の営みがあり、その繰り返しの先に死があり、新しい生がある。我々は我々の意思で生きているようで、案外不自由で、でもそのことは暖かな自然の中で生きて死ぬ幸福との引き換えなのだろうな、と思います。

人の営みを描いたものだと、セガンティーニの「羊の剪毛」とかも良かったです。羊が好きという贔屓目もある。かなりでかい絵で、手前の屋根の下で若い男女が一生懸命羊の毛を刈ってるんですが、奥の空の下には大量の羊がいて、この作業たぶん相当大変だろうなと想像がついてしまうのがいいよね。

 

なんか想像より長くなったのでこのへんで〆たい

気付いたら4000文字以上書いてた、馬鹿かもしれない。長いよ。長けりゃいいってもんじゃないぞ。うんまあでも感動や考えたことを忘れる前に書く必要があったから、つまり要は急いでたので、長くなるのは許してほしい。

今回の企画展は超当たりでした。いろんなことを考えるきっかけにもなったし、単純に楽しかった。でかい絵いっぱいあったし! 最近美術展って全然行けてなかったんですが、また行こ~って思いました。この企画展に関してはできれば期間中にもっかい行きたいな。

005 愛だの恋だのとか人間関係の話

元旦那と別れてから考え事するとそのことを考えちゃうのでブログ書く余裕がまじで無かった 恋は恐ろしいですね

なんとなく、自分に会うときに相手にオシャレしてきてほしいと思うのが恋で、どんな格好で来てもいいと思うのが愛なのかなと最近思いました 私は女の子と会うときが一番着る服に悩みます みんなおしゃれだから……恥ずかしくない格好しないとって……なるじゃん 周囲の女子ども、なんでみんな漏れなく可愛いしおしゃれなんだ? 服に悩むのでやめてほしい いやそのままでいてほしい 勘弁して

ここまでどうでもいい話 ここからもどうでもいい話

自分からすればおしゃれしようっていうのも適当でいいやっていうのもどちらも好感の表れで、興味無い人間相手だとそもそも会うのすら面倒くせえので、適当な服でいいやというのは別に雑に扱ってるつもりはなく、この人なら適当な服で会おうが関係なくまあ楽しめるだろうという信頼でもあり いや言い訳とかではなく

服ちゃんと選ぼうと思うのはそれはそれでこの人に会うならちゃんとした格好したいなという敬意 敬意というと大袈裟だが この人の横歩くなら服は気を遣いたいな……みたいな感覚です

根が適当な人間なので、適当でいいやて言ってる相手のほうが仲間意識的なものがある気がする 舐めてるのでは……? いやそんなはずは……適当でもいいよいいよって言ってくれるしじゃあ適当でいいかって返せる仲だと思っている 楽に会える ラフな関係といえばいいか つまり雑なのでは……? いやそんなはずは

ああでもちゃんとした格好で会いたいて言ってる人物相手には背伸びをしている、と思う

 

相手ごとにかなり態度や接し方を変えるほうだと思う どう思われてるか、どういう人物か、何が嫌で何は許せるか、あたりを勝手に査定して勝手に態度を変えている 悪いことだとも思ってないけど(誰でもある程度はやってることでその程度が大きいてだけだという考え)良いことでもないのかもしれない 八方美人の究極系かもしれない とはいえやりたくない努力はやりたくない派なので無理はしない 個人的にそのほうがむしろ楽というだけで

 

誰にでもいい顔するとか愛されたがりみたいなことを言われたなあ……(元旦那に言われたことを思い出して落ち込みタイムが挟まっています)

 

相手にとって最良の自分でいたいという気持ちは確かにある 愛されたがり、かもしれない 追われるより追いたい派だけどね!

ただ相手の中に自分の価値を生み出したいという気持ちがあるかと言われるとあまりしっくり来ず、ではなんで一人十色しているのかというと、単純にそのほうが楽しくない? というところに落ち着く

人間が好きで、人間ごとの感覚が好きで、ただそれに合わせたほうが楽しいじゃないのというだけ……だと思う 多分

 

愛されたいが0とは言わない 正直者なので 好きなことをしたいけど、それで嫌われてもいいとは思えない わざわざ嫌な思いをさせてまで貫きたい大層な自分など無い TRPGの中でならあるかもしれん たまにはギスりてえ

卓でも結局ギスれないの私の根本の性格の問題もあるのではないかと書きながら思った PvP可能性ありみたいなシナリオでギスったことほぼ無いんだよな これからあるのかもしれんが

 

喧嘩なんて多分ここ数年元旦那としたぐらいだなあ、ちょっとした話し合いとか不穏はあったけど……(元旦那との喧嘩を思い出して落ち込みタイムが挟まっています)

 

なんかこういう性格なんだったら余計にもっと人の好きな物の話とか耳を傾けたほうが楽しいんだろうなと思う 人のおすすめを素直に受け取って楽しむのって難しくない? あれなんでだろうね 熱量0のとこに+の人に来られるとその+分の差を目の当たりにして-側へ熱量が流れてっちゃうのかなと思う +に引き摺られるようになりたいんだけど根の感情を制御するのはなかなか無理があるので、勧められたものには意識的に食らいつくしかない FFXやらないとなあ……

インプットへの腰の重さが異常なのはいい加減克服したい 最近意識してはいるんですが、難しいですね ライブとか映画引きずり回したりゲームとか本貸したりされたいですね 楽しみたいですね、それらを 人間関係のためにというのは打算的か? 打算でも結果として良いものを摂取できるならいい気がする

まあなんというか人生楽しんでいきましょう

004 傷の治療の話

なんとなくタイトルの番号の頭に0をふたつつけているけど、一番左の0が0以外になることあるのかな。

 

誰のせいでもない傷を負ったとき、自分で治さなければいけないことは、理不尽だろうか。例えば、強風に煽られて飛んできた木の枝が腕に当たって、まあまあ大きな切り傷ができたとき、その傷を消毒したり、ばんそうこうを貼ったり、縫ったりといった処置をするために、時間やお金をかける。風も木の枝も誰かの意図で発生したものではなく、また怪我を負った人間にも一切の責任がない場合……まあそんな強風の日に外に出るなとか、不注意だとか言えばそれまでかもしれないが、あくまで「誰にも一切の責任の無い事故」だった場合、誰のせいにもできない怪我は、自分の時間やお金を支払って治すしかないわけで。

そういったことに対して、例えば事故や怪我であれば、保険や補償のような制度があるかもしれない。ちょっとクサい話だけど、これが心の傷だったら、どうすればいいんだろう。

自分の機嫌は自分で取れとはよく言われる話で、精神的に安定してる人って自分の機嫌をコントロールできるよね、みたいなやつ。誰のせいでもないとき、いや誰かのせいだとしても、その誰かには関係無い人間に不機嫌が理由で不都合を押し付けるのはそれこそ理不尽である。よくわからんけど機嫌が悪い上司とか、よくわからんけどいらいらしてる家族とか、迷惑ですよね。

いろいろと機嫌を取る方法はあるけど、好きなもの食べたり、好きな音楽を聴いたり、寝たり休んだり、でもそんな余裕すらない、動く気すら起きない、みたいなことあるじゃん。無い……? ない人はこんなくそみたいなブログ読んでないでこれからも健康的な生活を送ってくださーい。

誰か助けてくれ、と思う夜がある。でもそんなときに助けてくれる人なんて大抵いない。仕方ないので無理矢理寝たり、ネトフリつけたり、漫画読んだりする。何時間かかけて、誰のせいでもない傷を治療する。なんでこんな目に、と思うこともあるが、治療できないわけではないのだ。一晩経てば大抵の傷は癒えるし、一晩で癒えない傷は2日で癒えるし、2日で癒えない傷は3か月で癒える。

理不尽だと思う。この一晩が、2日が、3か月が、無いほうが多分幸せだから。でも誰のせいでもない。誰かのせいで不幸な時間を過ごしているわけじゃない。理不尽。

 

本当に人間は、涙の数だけ強くなるだろうか。壊れて直すたびに脆くなるものだってある。傷ついた経験が傷つけられた記憶になって、世界という名の無関係の誰かに報復してしまうこともあるだろうし。人間、余裕が無いときは奪い合うものだって、昔の文豪も言ってたような気がする。

傷なんて無いほうがいいよ。それでも傷を負わずに生きていくことなんてできない。人間って脆いから……。

 

せめてもの救いとして、きっと簡単じゃないんだと思い込んでる。生きてるだけで傷は負うし、誰も助けてくれないときは自分で治すしかない。つらい! 他の人も同じような経験してるのかな。だとしたらもうみんな生きてるだけで偉いよ。まじで。

自分でも感受性が高いほうだと思う。傷つきやすい。犬だって歩いててもこんなに棒に当たらないと思う。無理やり眠る夜、今後もしょっちゅうあると思う。そのたびに、自分で治す努力してて偉いなあって自分を褒めようと思います。

 

みんなも生きてて偉い。よく眠るんだよ。おやすみ。

003 人によって何が嫌かなんて違うよね~って話

寝れない、というと嘘だと思う。恐らく目を閉じてじっと布団にもぐっていればいつかは入眠できる、が、どうもその努力をする気が起きない夜です。Jpopの歌詞に執拗に登場する「寝れない夜」というのは、だけど、こういう夜を指すんじゃないだろうか、そうじゃないと今後「寝れない夜」に共感しがたくなる。共感があったほうが良いものに感じるし、良いものは世の中に多ければ多いほど良いので、「寝れない夜」とは決して本当に寝れない夜ではなく、寝る努力をする気が起きない夜、という解釈をする方針でいきたいなと思いますが、いかがでしょうか。

 

言葉にするのは好きではあるが、普段から特別あれやこれやと思考を巡らせているわけでもなく、むしろ何も考えずにぼーっと過ごす時間のほうが多いため、溜め込むほどの言葉を吐くのが意外と努力が必要なことに気付いた。努力、非常に嫌い。努力を目標にして努力をするのが特にめっぽう苦手。具体的かつ魅力的な目標さえあれば、なんとかできるほう。このブログには特に具体的かつ魅力的な目標が無いので、いつまで続くものだか非常に怪しいなと思っています。10を突破するごとに美味しいつまみかおやつが届くとか……100行ったら食べ放題じゃない焼肉奢りとか……そういう私だけが得をするシステム、無いかな。無いか。

 

さて。さてと区切るときはだいたい次の話題が浮かんでないときです。

考えることに使う時間は少ないが、考えることそれ自体は好きです。想像信仰の気があるという話を以前した気がする。そういうものだから、で思考を止めるのが一番苦手。こと人間関係においては、特に。

大抵の場合思考は、あらゆる疑問や疑惑から始まります。この式の答えはなんだろう。あの人の名前なんだっけ。なんで空は青いのか。死後の世界ってあるのかな。誰なのよあの女は。なんだろう、なんでだろう、どうだろう。などなど。何かしら解決したい問題や疑問があり、それを解決するための手段が思考。このナニナゼに答えや理屈を線で繋げるプロセスが思考だとしたら、思考とは非常に理論的な行為です。人間らしくていいですね。

しかし思考の根底には、思考する人間がいて。人間は理論の反対としてよく取り上げられる「感情」を持ち合わせているわけで。理屈から感情を弾き出すのは、時には大切なことだけど、時にはその行為自体がお門違いだと感じることがあり。そこの線引きの難しさというものを、最近はよく感じます。

 

理屈が通っているほうが正解なのか。合理的な判断のために、感情は、排除されるべきなのか。

 

努力が非常に嫌いで、人間関係においてもそう。頑張りたくない、と常々思っている。面倒事は避けたい。嫌なことは起きないでほしい。例えば正しいことがわかっていても、お互いがそれを嫌だと思うなら、正しくなくてもいいか、と判断することが多々ある。抜けるところは抜きたい。しなくていい努力はしたくない。逆に必要な努力なら、一見意味わかんなくてもするべき。

 

こと人間関係における「理屈」は、たいてい「感情」の存在を根底に成り立っている、と思います。

悪口を言ってはいけません、相手が嫌がるから。笑顔で接しましょう、相手が安心するから。挨拶をしましょう、相手が気持ちいいから。「人間の感情」という非常に曖昧で個人差があるものを一般化して、それに沿って人間関係上のセオリーは成り立っています。こんなこと言ったら心理学の先生に怒られるかもしれないな。でも言いまーす。

99%の人は、悪口を言われたら嫌で、笑顔で心を許し、挨拶で気分が良くなるかもしれない。じゃあ、残りの1%は?

 

小学生の頃、クラスメートに「さん」付けをするべきか、呼び捨てしてもいいかで学級会議が勃発したことがありました。担任と児童で少々揉めた後、痺れを切らした担任がクラスの中でも清楚で真面目な女子児童に「じゃあ◯◯さんは、クラスメートの男子から◯◯って呼ばれるのと、◯◯さん、って呼ばれるのだったら、どっちがいい?」と聞いたところ、児童は「普通に◯◯のほうがいい」って笑いながら答えたのが印象深くて、もう20年近く前なのに未だに憶えてます。それを聞いた担任は少し項垂れた後、「相手が本当に嫌がってないのなら、好きにしなさい」と結論を出しました。担任が、それでも呼び捨ては良くない、と、無理やり話を進める人じゃなくて良かったと思ってます。

99%のために思考を止めるなと言いたいわけでも、1%のことを考えろと言いたいわけでもない。ただ、自分にとっての普通が、誰かにとっての普通じゃないことがある。そういうときにセオリーは役に立たない。人間関係の中の理屈が何のためにあるのかといえば、相手を傷つけないためであって、より良い関係を築くためであって、つまり相手を思うためにあるのであれば、相手に応じて理屈の答えが変わるのは当然だよな。

 

いうてね、大して好きでもない上司には、悪口を言わず笑顔で挨拶だけしてればいいと思うんです。そうじゃなくて、大切にしたい人とか、友達とか、恋人とか、そういう人たちと良い関係でありたいときには、相手について知ることと考えることってわりとマストな気がする。つまり、感情のために理論を捏ねる過程。どこは気を抜いていいのか、どこは気を付けるべきなのか。相手が本当に嫌がってないのなら好きにすればいいし、相手が嫌がってるんなら、セオリーだろうがなんだろうが即刻やめちまったほうがいい。わかりやすく言えば、一緒にご飯行くときは、食べれない物無いか聞こうぜって話だな。そして食の好みが合うやつは大事にしよう。

 

なんか出だしのわりに死ぬほど陳腐な結論になっておもんねって顔になった、今。てことで、寝ます。

002 絵のことと、感想を言うのは怖いって話

どうせすぐに飽きてブログの存在すら忘れてしまうので覚えているうちに何か残しておこうという、そもそも意味のないブログなのにそういう打算でまた記事編集画面を開いている。無意味なことに対して打算とは、一体。

更に300文字くらい書いてから面白くないな……と思って消して今。そもそも面白い話をするための場所じゃないんだけど、書くのもつまらないんじゃいよいよやめたほうがいいという話になってきます。

 

さて、今日は何を話そうか。ふたつめの記事だし自己紹介とかしておきますか。そういうのは……ひとつめでやるべきなのかもしれないな。まあええか。

好きなことについて。絵の話でもしようかな。

 

絵を観るのがまあまあ好きで、稀に美術展に行くことがあります。稀に。

芸術の価値とは非常に曖昧で、いい絵かどうかというのは観る人とか、時代背景とか、描いた人とか、いろんな要因で左右されます。

どっかの掲示板のどっかのお絵かきスレでの話をひとつ。ゴッホだか誰だか、とにかく超有名画家のスケッチを載せて、「絵を練習し始めた、自分の絵だけどどうだろう」という誰でもわかりそうなホラを吹いたところ、「デッサンがなってない」「基礎から練習しろ」と上から目線のレスがどんどこ届いたという面白話があって。あれめっちゃ好きなんだよな。

実際美術展に行くと、クロッキー帳のぺらぺらの紙に描いた簡素なスケッチが、大層な額縁に入れられて飾られてたりします。上手いんすよ、実際。上手いんだけど、物によっては「絵が好きな高校生のスケッチブックです」て言われてもわからんやろな……というものもある。いっぱいある。

なんならスケッチじゃなくても、ちゃんとキャンバスに描かれた作品でも、これがすごいのか……と思うような絵、結構ありますあります。こんな話したら怒られそ~~~!! でもします!! みんなピカソの絵の何がすごいのか説明できるんか? ゴッホより普通にラッセンが好きな人、いっぱいいるんじゃないか?? 美術展とか行く人のうち多分何割かは、ちゃんとピカソの凄さを説明できるんだと思います。それが過半数なのか、半数以下なのかすら想像すらつきませんが……ちなみに私はできない。それでも絵を観るのは楽しい。

 

絵を描く人と美術展に行くと、「色の出し方が綺麗」とか「タッチで立体感が出てる」とか「構図が」「描き込みが」「人体が」みたいな話を結構してくれてめっちゃ面白い。描かない人と行くと、「あの絵が好きだった」とか「あれはよくわかんなかった」「あの絵の人の顔が面白かった」みたいな話が出てきて、それもそれでめちゃめちゃ面白い。

私の周りには、恵まれたことにいろんな人がいます。絵を描くのが得意な人、映画をたくさん観てる人、音楽に青春を捧げた人、いろんなゲームをしてきた人、味にうるさい美食家の人、野球にやたらと詳しい人、みんなが素通りするものに気が付ける人、いろんなことに興味を持てる人。それぞれがそれぞれ違う視界を持ってる。それぞれごとの感想が出てくる。面白すぎる。

 

でもですよ、例えば音楽に詳しい人の前で、この曲が好きだとか、この音楽のこういうところが好き、みたいな話をするのってちょっと緊張します。恐る恐る話して、いい反応、わかる~! とかいいよね~! が返ってきたとき、少し安心してしまう。

多分「美術がわからない」って言ってる人のうち何割かも、同じなんじゃなかろうか。この絵がどんな意図をもって描かれたのか、どんな時代の絵なのか、画家はどんな人生を歩んだのか……そもそもこの絵の何がすごいのか。色? 構図? 解説を読んでみるとあれがあれを表しているらしい、とか。わかるかそんなん!! みたいな……それがわかんないと、「いい絵だった」「あの絵が好きだった」なんて言っちゃいけないような気がする。

 

私もその感覚は未だにある。自分の感性に自信が無いので、何かの感想を語るときに、これは正しい感想なんだろうか、と怯むことが、結構な頻度である。頭では気にしなくていいとわかってても、みんなが面白かった! と言ってる映画につまらなかった、と言いたくなったとき、逆にわりと酷評されてる本が普通に面白かったとき、同じような感想を抱いている人がいないか、先に探してしまうことがある。そしていると安心する。あーこの感想で良かったんだって、安心してから、こんなことで安心している自分のしょーもなさにちょっと辟易する。誰かと一緒じゃないと、褒めることも悪口も言えないのかよっていう。

あらゆる作品に対して思ったことを、正直に言えるようになりたいなと思う。怯まずに。ゴッホの絵だって、ゴッホが死ぬ前は全然評価されなかったらしいし。じゃあいいじゃん、ゴッホよりラッセンが好きでも、ピカソの絵の良さがよくわかんなくてもさ。

なんかいいワイン飲んだら豊富な語彙で褒めなきゃいけない気がする、とか、音楽オタクとライブに行ったら演奏技術について言及しなきゃいけない気がする、とか、有名な絵画観たら凄かったって言わなきゃいけない気がする、とか、そういうのを卒業したいよな。

 

余談な上に少し前にTwitterでも話したことだけど、その上で「わかってる人」の感想や意見を聞くと、更に作品に深みが出てきたりするので、いろんな知り合いがいることは本当に恵まれてる。ああ~、自分に無い視点! 視野! おまえの世界、画質、良っ……!!!

人生の使い方が違うんだから、視点が違うのも当たり前なんだけど、悔しく思ってしまう。ここで悔しがってないで、素直に尊敬しつつそれを少しわけてもらえることをありがたがれよ、と思うが、私は根が非常に負けず嫌いでプライドが高いので多分無理。悔しい。ずるい。このプライドの高さを受け入れた上で、少しでも高解像度の世界に近付くために、あらゆる分野でのあらゆる話を聞いていきたいという気持ちはある、気持ちは。でも悔しい。

 

美術展に行きたいって話をすると、わりと低くない確率で「美術わかんないんだよね」と苦笑いされる。そういうときによく悩む。まじで興味無くて行きたくないのか、前述したような理由で怯んでる私の仲間タイプなのか……どうするべきなんでしょうね。無理強いすることではないのは確か。「あの絵が好きだった」とか「あれはよくわかんなかった」「あの絵の人の顔が面白かった」みたいな話聞きたいんだけどな、って。でもこれ人によっては結構力がいると思うんだよな。実際私も「わかんなくてもいいから!」って言われてもちょっと勇気要る。難しいね。結論、出ず。

 

そろそろ自己紹介に戻るか。いやこのブログはそういえば全編通して自己紹介みたいなものなのですが……私はモネがかなり好きです。クロード・モネ

水たまりに一瞬反射する眩い光とか、どこに植わってるのかもわからない金木犀の香りとか、寝れなかった翌日の早朝に出かけた日の薄明るい空の遠さとか、そういうのが好きで。モネの絵が好きなのは、そういう「瞬間」の光を感じるからなんだろうなと思う。

印象派」と呼ばれる画家で、それまでは写実的な、まるで写真のような絵画が良しとされていた時代だったので、当初その写実性のかけらもない画風は全く受け入れられなかった……と聞いたことがある気がします。

昔から感覚的にモネの絵は好きだったのですが、決定的にその人が好きだと思ったのは「キャプシーヌ大通り」の絵についての説明を読んだときでした。窓から見た大通りの雑踏が、黒い絵具で点々と描かれた絵です。調べてみて、ウィキペディアもあるから。

雑誌では「なんだこの黒い点々、人のつもりか」と相当こき下ろされたそうですが、それに対してモネ自身は「私にはこう見えた」と返したという話があります。印象派という言葉は最初は揶揄として使われたそうですが、あまりにも天才的なネーミング。見えたものの印象を絵にするというスタイルを、誰よりも早く、堂々と確立した人なんですよね。痺れる~……印象派の時代から絵画のスタイルって一気に広がったような気がしています。

モネの絵は、その瞬間の空気を、煌めきとか、香りとか、空の遠さとか、そういうものを伝えたいという心を感じるから好きです。もしこの記事をこんなとこまで読んでる人がいて、モネの絵を観る機会があったら、思い出してみてほしい。あ~、市井游の推しだったなそういえば、という感じで。図々しくも、誰かに私の解像度を少し分けられたなら嬉しいですね……忘れてたら忘れてたでいいよ。楽しければなんだっていいんだ。

 

ちなみにこのちょい後に出てきたのがゴッホで、彼の絵も結構好きです。何故なら青と黄色の組み合わせが好きで、ゴッホの絵にはそれがよく出てくるから。単純!