001 夏のことと、死ぬのが怖いって話

ゲームや音楽や絵が好きです。

もっとザッパに言えば芸術、人が何かを思ってそれについて何かしらの形で表したもの全般が好きで、更に私について書いていいのだとしたら芸術にすらならない程度の、言葉による非常にザッパな加工で自分が何かを思ってそれについて表すのをひとつの趣味としています。

更に私について書いていいのだとしたら、というあまりに無意味な予防線を張りました。

この予防線の無意味さと言ったら、そも〱このブログは先述した「私の趣味」によって生まれる、何かのなり損ない……芸術への憧れの残骸……そのようなものを試しに集めてみようかなという発想が発端なのであって、つまりこのブログは私について書くことを前提としているわけであり、書いていいかどうかなどを誰かに尋ねたところで、いいえと言われたとすれば私はまず筆を置く必要がありますが、そんな気は誰になんと言われようとも今のところはさら〱無いのです。つまり、無意味。

とはいえ、このブログ自体何かを目的としたものではなく、「試み」の結果がどのようなものであれ特に意に介する予定は無い。そも〱、興味を惹く結果になりえましょうか。未来の事象について断言するのは、私が大好きな芸術の中でしばしば愚行とされますが、今回ばかりは断言させてほしい。無い。有ったらそのときは撤回と謝罪をします。予防線2。

さて。

前提として思考を気の赴くまま言語化するという趣味の残骸である、というこのブログ自体が無意味なものなので、無意味な予防線も、無意味なものの中に無意味なものがあるだけなので、許す・許される・構う・構わないなど……要は必要な気遣いの域から「はみだし済み」のものであると考えました。そう、こういう話を、無意味にしていきたい。そんなブログであることを断っておきたい。

 

考えること。今何を考えているか。空がいつも通り桃色である。湿度は高い。夏がちかい。夏。いいですね、夏、それでいきましょう。夏、好きですか。自分は嫌いです。夏。

 

オタク、概念としての夏好き説、定期的に上がるように思います。

ハイコントラスト。日光が強くなるので、光と影の対比がより際立つ季節です。

特に生と死。空を見るひまわりは、ひと夏で絶望的に項垂れて枯れますし、元気に鳴く蝉は道路に転がりますし、人で賑わう海辺は盆明けには閑散としますし、花火は美しく咲き、瞬きをすれば散る。光に生を見て、影に死を見るのは、よくある観点。一歩先に色濃い影を見つける夏に、オタクたちは生と死の対比を見がち。

刹那性を美しく思うのは人間に死があるからでしょうか。本当に終わりあるからこそ美しいのでしょうか。ときどき、避けようがない終わりがあることをどうにかこうにか受け入れるために、終わりに美しさを見出すのかもしれない、と思う。本能が恐ろしがるから、誰もが死にたくないから……あー、誰もがなんて言ってしまうと怒られるかもしれない。本当に死を美しいと思っている人もいるかもしれない……いやきっといる……はい、予防線3回目。

死を、さよならを、なんとか受け入れるために、終わりあるからこそ美しいのだと言い聞かせているような、気がすることがあるわけです。死にたくないし、知ってる人が死んだらきっと悲しい、途轍もなく……少なくとも私はそのように自分を恥ずかしく思うことがあり。それはだって、恐れているという現実からも目を背けているということであって、つまり弱さの証明に他ならない。

 

弱さ。

しかし弱さ無くして進歩はないわけです。つまり伸びしろ。完成したものに手を加える必要は無く、人間ひいては人類は未完成であり、そのため努力・向上・成長・進歩・進化……といったものが、あらゆる場面、愛する芸術に限らず、産業や団体の中でテーマとして取り上げられがちなわけです。死への恐怖が医学を発展させてきました。恐れと弱さが人間を歩かせるのであれば、死に美しさを感じている場合ではない。

終わりへの恐怖の克服は過去の人間たちが試みていたらしいと、歴史の授業で聞きました。天国、極楽浄土。死後にも未来があるという「知識」を与えられることにより、死への恐怖を緩和するという運動。ここで気付く、宗教は科学と度々対立してきた文化であり、停滞の影には宗教や思想の影があることが多々。

発展と停滞……前述の内容から、生物として未熟であることが発展を促し、完全に近づくほど停滞するとして、宗教の一面には人間を完全と解釈することがあるのかもしれない。

 

サテ歴史と宗教について、途轍もなく苦手分野だぞ。想像をしてみよう。

ここで自己紹介を少し挟むと私は想像を信仰している節があります。自己紹介、以上。今はそれについて語る気分ではないので。

予防線が大好きなのであらゆる宗教と信者に当てはまらない内容であることを断っておきます。これで4。

宗教には教えがある。いいことをしようね、あれをたべようね、たべないでね。あれをしようね、これはしないでね。いのろうね、しんじようね。など。何故そうするのか、より良く生きより良く死ぬため、より完全に近付くため。教えを守ることが全てであるならば発展など必要はなく、神がそう教えるのであれば地球は回らなくとも良く、祈りと儀式で万病が完治するのであれば医学は必要無い。つまり幸福への最効率ルート。今あるもので満足するためのシステム。人生の安寧と幸福の総量を増やすための選択。

その最短ルートが無視したあらゆる事象、例えば死後の世界なんて本当は無いこと、祈っても病気は治らないこと、地球は毎日回っていること。それらの事実は人生の幸福に必要無いという反論を私は潔く受け入れますが、事象を知り、理解することに快楽を覚える、或いは事実や事象を無視して生きることに酷い抵抗を覚えるタイプの人、例えば私とかは停滞の幸福を捨ててでも恐怖と発展を崇めてしまうのでしょうね。効率が悪い。たぶん死ぬまで死が怖いまま。

 

なんの話だった? 夏か。

夏は暑いから嫌いです。以上、お疲れ様でした。